オードリーの若林さんの著書「ナナメの夕暮れ」を読み始めた。
ドラマ「だが情熱はある」を娘が見ているのでつられて見ていることと、たまたま寄った本屋さんで文庫で出ていたから買ってみたのだ。
まだ読み始めだから感想については何とも言えないけれど、読み始めてすぐに「あ、俺もエッセイ書きたいなー」と思った。
エッセイストみたいにものごとを斜めに切り取って文章を書いてみたい
周りの人が疑問にも思わないことに対して疑問を持っていること、それがエッセイとしてすごく面白い。
「ネクタイを締めるのが苦しくてどうしてもなれない」「学ランの第一ボタンをなぜ締めないといけないのか」
若林さんはそんなことを思っていたらしい。
僕はそんなことほとんど思わないで生きてきた。
「校則だから」といわれたら、「そういうルールなんだ」と疑問にも持たずに生きてきた。
そんな自分がなんだか恥ずかして、この気持ちを残しておきたいと思った。
多数派でいたほうが楽だし安心できる。
日本人はそうやって教育されてきたし、学校教育なんてみんな横並びにするために、平均的になるようになるように教育している。
差がそんなに生まれないことが公立の学校としはよい学校とされるのだろう。
僕もそうやって多数派に染まってしまった一人だ。
勉強だけはできたけれど、今僕のことを覚えている中学校の友達は何人いるだろうか。
ほとんどの友達が僕のことを忘れているに違いない。
みんながそうしていることに僕もならって、「みんなと同じ」であることが正解になってしまったんだ。
でも、ナナメに物事を捉えている人は一定数いて、みんなが当たり前に思っていることに対して疑問を持っている。
当たり前に思ってる人は疑問すら持たないことだ。
そもそも学ランの第一ボタンは確かに締めていたら苦しい。
先生は苦しかろうが「校則だから守れ」という。
この校則の目的はなんだ?
ルールに従わせることで規律を作り、先生や学校が絶対になり、管理しやすくするようにするためなんだろう。
1人が第一ボタンをはずしていることを認めたら、「ルールは守らなくてもいいんだ」とみんなが思ってしまう。
小さなルールでも守らなくてもいいというルール違反を認めたら、大きなルール違反が起こるようになる。
だからルールは絶対のものとして厳しく取り締まる。
ルールは絶対守らないといけない。
それは管理するために必要だから。
それにしても、「第一ボタンを締めないといけない」のルールは厳しすぎやしないだろうか。
これを守らせるのはかなり管理する側も大変だ。
髪を染めるのは禁止!とかそんなルールなら管理しやすいのに、ここまで規制したらさすがに破るやつも出てくるから先生も大変だっただろう。
僕が今高校性に戻れるなら、先生のためを思って「この校則はやめましょう」と声を上げているかもしれない。
第一ボタンはOK、でも第2ボタンを開けちゃダメという校則に。
これならみんな守れるだろうから。
ルール違反を厳格に取り締まっても大丈夫だ。
第二ボタンまで開けていると逆にダサいし。
あ、そうそう。
オードリーの若林さんは僕の母校を卒業した先輩だったらしい。
先輩!気づきをありがとうございました。